昭和52年08月11日 朝の御理解
御理解 第21節
「信心せよ。信心とはわが心が神に向かうのを信心と云うのじゃ。神徳の中に居っても氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油一杯あっても、芯がなければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。」
信心によって頂く光。少なくとも自分の周辺だけぐらいは明るくなる。そういう光を頂くということ。それには信心せよ信心とはわが心が神に向かうのを信心というのじゃと仰せられる様に、ただ自分の心が神様とこう向くという程度の事では、私は光にならないと思うですね。ただおかげを頂かんならんから合楽に足を向ける、成程それも神様に向かった事ではあるし、一歩でも無駄にさせんと仰るから無駄ではありません。
けれども、世の光ともなるのはどこまでもわが心が神に向かうと言う事。神とは私はここでは生神と頂かねばならんと思うです。お道の信心はどこまでも生神を目指すのだということです。だから本気で生神を目指すと言う事。わが心が神に向かうというのはね、そういう心が出来た時点から私は、光ともなる信心が身に付いて来ると思うです。信心とはわが心が神に向かうと、こう神様を合掌して拝む。
成程それもわが心が神に向かうたのです。けれども、最後にある光ともなる、信心の光ともなる程しの信心とは、ただ神様を拝む心が生まれた事ではないと思う。もう金光教のご信心は生神を目指すのだと。生神とはここに神が生まれる事であってと仰せられるように、自分の心の中にね、自分で合掌したいような有り難い心が生まれて来る。そういう神様が心の中に生まれ続けて下さる。
それを楽しみに信心をさせて貰う。神徳の中に居っても氏子に信なければと。これは確かに私共が、神徳の中にある事は理屈を聞けば分かります。ですから本当に神徳の中にある実感というものが頂ける信心。合楽理念、合楽理念と言う事が言われますけれど、いかに合楽理念を聞いておっても、合楽理念をマスタ-しても、言うなら合楽理念、合楽理念の中に住んでおっても氏子に芯がなければ火がともらんと言う事になるのじゃないでしょうかね。合楽理念は完璧の理念だ、助かりの理念だと。
生神へ向かう理念だ、しかも絶対どんな生き方をすれば生神様になれるだろうかと。言うなら、不安もなければ心配もない。この合楽理念をもってするならば、はっきり生神の道が明示されておるのである、という程に絶対の道に私共が出らせて頂くと言う事。勿論この世あの世を通して、魂の世界に入っても、矢張り生神を目指して行くと言う様な信心がです。一番初手の所から、言うならば一番始めの所からです。
お道の信心は生神への精進だと、私はそういう思い込みが出来てからの信心でなからねば光にはならんと思うです。生神への道を探求する生神への道を精進する。それにはここに言うならば合楽理念があると、例えば合楽理念の中にひたっておっても、聞いておってもですお道の信心は確かに生神を目指すと言う事。昨夜の御理解に私はお互いが羅漢さん止まりになってはつまらんと申しました。五百羅漢というのがあります。
あれは矢張り仏教に志させて頂いて、ある程度の悟りを開き、羅漢さんの中には大きな口を開けて笑っておるのがあるかと思うと、もうそれこそ眉逆立てておこっとる羅漢さんがある。もう本当に自分たちの身近におられる人たちの顔が、五百羅漢の中にありますね。皆さんがご覧になるとあぁ、あの人、家の隣の人によう似てあるという人がある。言うならば、人間が言うなれば信心をさせて頂くのですから、人間だからこれまでと言った様なところで留まっておる。
言うならばある意味での徳を受けて力を受けて、信心の有り難さも分かって、そこに悟りのようなものが開けてくる。これは人間の何と言うでしょうかね、一つの苦しみから逃れる一つの便法のようなものを、体得した程度の事ではないでしょうかね。そしてこれは、これくらいの事は、人間だから仕方がないんだと言うのでしょう。所が金光様のご信心は、羅漢さん止まりでなくてどこまでも、まあなれてはおりませんが、目指す所は生神だと言う事。ですから限りない修行が進展されて行くわけです。
私は今朝思わせて頂く事ですけれども、修行に御の字を付けさせて頂けれるおかげを頂かせて頂かねばなりません。矢張り御修行です。しかもそれは生神への精進です。ですから、本当に御の字を付けなければいけません。信心がまさかの時に役に立たないような信心ではつまらんと言う事です。まさかの時言うならばまあ大きな難儀と言う事になるかも知れません。けどもそこに大きな修行として受けられる信心を頂かなければね。雨が降り出して傘を開いたけれどもその傘は破れておった。
柄が抜けておったもう傘が役に立っとらんですね。どんな場合でも信心が、信心を頂いとるおかげというものが、その場その場で頂けれる様なおかげを頂かねばいけません。その為にはです修行を怠ってはいけませんね。本気で修業さして貰う。その修行がです矢張り生神への精進と言う様な気持ちでさせて頂く修行でないと、修行がすぐ緩んだりお粗末になってくるんです。不思議に修行が出来ておるときであれば、どう言う事であっても「どっこい」と受けられるし、御修行として受けられるのです。
まさかの時に慌てねばならんと言った様な、すぐ崩れるような信心ではそれは修行が出来ていない証拠です。ですから三代金光様が仰られた様に、信心には辛抱が一番大切で御座いますと仰る。是はもう生神への道とか、精進に必須のもの絶対必要なもの。だから辛抱力を作る稽古をさせて頂かねば出来ませんね。だからそれは辛抱に耐えられずに失敗を致しますけれど、それで挫折する事なしに、言うならばもう一遍、その苦しいなら苦しい事に取組ませて貰う。
それを繰り返し繰り返し、取り組ませて頂いておる間に、それはもう辛抱ではなくて辛抱せずにすむおかげ。いや、その事が有り難くなってくるというおかげになって、それが信心の、私は稽古じゃないかと思う。もう耐えられない失敗をする。それで、これではならんと思ってまたそれを繰り返し稽古をする。そうしておる間にその事が辛抱ではなくて、有り難いということに感じられるようなおかげ。なら、朝起きをするというてもそうです。中々苦しい。
けれどもその稽古をさして頂とる間には、もうそれこそ朝早く起きなければ気色の悪いくらいになる。言うなら朝起きがこんなに有り難いということになる。それを、私は稽古をする事が信心だと思うんです。信心せよ信心とは、わが心が神に向かうと言う言。わが心が神に向かうと言う事が、金光様の御信心だと言う事。ですからもう羅漢さん止まりになる事がない。限りなく一歩づつでも生神へ進んでいく精進なのですから。そして昨日から申しておりますようにです。
例えば商売をさして頂くでも百姓をさして頂くでも、女の方が言うならば家事万端の事をさして頂くでも、もう合楽理念をもってする他はないと言う様な信心が出来た時。初めてそれが家の光とも世の光ともなるのじゃないかと思うです。信心の光というのは只拝みよりますとか参りよりますとか言う位の事で出来るもんではない。わが心が神に向かっていくという、言うならば一心発起する所から一歩づつでも神様に向かっていく精進。それを倒れ転びしながらでも、それを本当なものにして行こうとする精進。
初めてそれが有り難いものになってその有り難いものになっておる時には、もうすでに光になっている時だと思うです。信心がいざと言う時に役に立たない。そういう信心ではなくて、愈々いざと言う時に役に立つ信心を身に付けなければならない。それはただ一生懸命してさえおれば良いと言う事ではない。何時も間違いの無い焦点、言うならば生神を目指すと言う事。愈々合楽理念を基にして事が処して行かれる信心。
そういう信心がわが心が神に向かうと言う事。そういう信心が私は耐えられなかった事が有難く耐えられる様になる。それが私は光だと思う。信心に一番大切なものは辛抱。辛抱力を作っていく事の為に信心がある。それをもし中途半端で、人間だからこのくらいの事はと言った時には、どういう信心が例えば身に付いておっても、それはもう羅漢さん止まりである。そりゃ失敗があっても良いけれども、その失敗をまた、それを繰り返し繰り返しそれこそ「御」修行として受けていく信心。
どんなに合楽理念、合楽理念ということを毎日聞いておっても、それを例えばマスタ-すると言われておるが、それをマスタ-した所で、覚えた所で、それを行の上に表していかなければ「神徳の中にあっても、氏子に芯なければ火はともらず」と教えられる事と同じ事になるのじゃないでしょうか。言うならば合楽理念を聞き続けておっただけではいかん。もう合楽理念をもってする他はない。
家業の行の中にお百姓をさして貰う中に、お商売さして貰う中に、もう合楽理念をもってするより他はないと言う様な強い思い込みができると言う事もです。信心辛抱の出来んなりに頂ける筈は絶対にない。血肉になっていかない。信心の稽古というのは、辛抱しきれない。失敗するけどまたそれを繰り返し稽古をしていく。それがもう歯を食いしばらんでも、辛抱しなくっても有り難く受けられるという稽古。これが信心です。また信心にはその精進が一番大切だと言う事を一つの信心の基本にして。
愈々合楽理念の中に住まわして貰う。それをそのまま神徳の中にあると言う事も言えるでしょう。世の愈々光ともならなければいけません。信心させて頂く者の一人一人がそういうおかげを頂かして貰って、自分の信心の中に、合楽理念の中にあるけれども果たして火がともる芯が出来ておるかどうかと言う事を、確めて頂きたい。芯なければ火は灯らんのです。だから一心発起そこに芯を置いてね。生神への精進であるという芯をそこに置いて、初めて火が灯る。
今日は信心修行に「御の字」を付けさせて貰える修行をさせて頂きたい。そういう修行が出来ておらないと、さあ雨ださあ曇ってきたというときに慌てんならん。その時慌てんで済む信心が、不思議に修行に御の字を付けさせて貰えるような修行が出来ておるときにはです、どんな場合であっても心が安らいでおるです。慌てんで済む。いざという時に役に立たない信心では、ただお参りしておる、おかげを頂いておるだけでは、いざという時に役に立たない。どうでもそういう信心を身に付けたいですね。
どうぞ。